1. 積極的な『受動的人生』。徳丸先生が仕事をする上で、大切にするたった1つのポリシーとは

プロに聞く【vol.06】

2015.12.01

積極的な『受動的人生』。徳丸先生が仕事をする上で、大切にするたった1つのポリシーとは

  • Facebook
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

情報セキュリティ業界の重鎮として名高い “徳丸先生” こと徳丸浩氏。これまで『NO MORE 情報漏えい』でさまざまな話をしてもらいましたが、先生自身について深く触れた機会はありませんでした。

そこで今回、プログラマーとしてキャリアをスタートさせた先生が、なぜセキュリティ啓蒙の道に進むことになったのか。情報発信する上でどのようなことを意識し、今何を課題と感じているのか。これまでのキャリアを総括してもらいつつ、真意を伺いました。

 

キャリアの原点は「肉体労働」と「塾講師」のバイトで貯めたお金で買ったパソコン

まず、徳丸先生が京セラ入社に至るまでのキャリアを紐解いていきたいと思います。先生は東京大学でプログラミングを学んだあと、すぐ京セラに入られたのですか?

徳丸先生:
いえ、実は私は大学を中退しているんです。大学の講義がどうも肌に合わなくて、ほとんど通いませんでした。中退したあとは、早朝の電車で中吊り広告を張り付けるバイトをして、夜は塾講師をしていましたね。1年ほど朝晩働いてお金がかなり貯まったので、『PC-8801 mkII』というパソコンを購入したんです。それが1983年のことです。

 

—その頃パソコンを買ったことが今のキャリアの原点になっている訳ですね?

徳丸先生
そうですね。それが大きなターニングポイントと言えるかもしれません。そのパソコンで、C言語・アセンブラ言語・ベーシック言語を独学で勉強しました。

 

—大学中退から、京セラ入社にはどのような経緯があったのですか?

徳丸先生:
学校にも通わずプログラミングに夢中になっていたので、24歳の頃にはC言語は一通り覚えましたね。曲がりなりにも最低限の技術を身につけたし、そろそろ定職に就かないといけないなと思って就職活動を始めた矢先のことです。

音信不通になった私を心配した高校の同級生が、下宿先のアパートに電話をかけてきてくれました。諸々の経緯を伝えたところ、「就職する気があるなら、京セラに入らないか」と話を持ちかけてくれたのです。実は彼の父親が京セラ工場の工場長をしていたので、「その工場であれば、父親の紹介で入社できるかもしれない」と、融通してくれました。

そこで入社希望の意思を書いた作文を一晩徹夜して書きあげまして、速達で送ったんです。その手紙をいたく気に入ってくださり、結局本社採用の面談にこぎつけ、情報システム部門に配属することになりました。最初の勤務地は、アプリケーション開発を行っていた鹿児島の工場の電算室でしたね。

 

「Webアプリケーションといえば、徳丸」技術者としての腕を買われ、ソフトウェアセキュリティの道へ

—プログラミング開発の部署で手を動かしていた中で、「セキュリティ」の道へ行かれたんですよね。

徳丸先生:
はい。1995年に当時の部署が「京セラコミュニケーションシステム株式会社(KCCS)」という名で独立になりまして、そこで携帯向けのWebプラットフォーム作りをしていました。

転換点となったのがNTTドコモが『iモード』というサービスを立ち上げた1999年です。KCCSでも通信キャリア向けの認証課金システムの基本設計を作るということになり、そのポジションにつく人間として、私に白羽の矢が立ったんです。39歳の頃でした。「Webアプリケーションと言えば、徳丸だ」みたいな社内的評価をいただけたんです。

その仕事を通じて、ソフトウェアセキュリティという部分に向き合うことになります。振り返ると、言われたことに従っているうちに、道が決まってきたので、私の人生は『すごく受動的な人生だな』と思います(笑)

 

—社内で評判が立つほどの実績があるということは、それだけ仕事にのめり込んでいたんですね……。

徳丸先生:
そうですね。2000年末には、日経BP社さんから取材を受けることや、寄稿依頼をいただくようになりました。自分でもソフトウェアを開発するようになり、共感してくれた若手社員が、研究レポートをまとめて社内コンペに出してくれたところ、優秀賞を取ることができまして。ぜひ社内事業にしようということで、2004年に社内ベンチャーとしてWebアプリケーションセキュリティの事業を立ち上げました。

「インターネット事業をするなら、情報のスピードが日本で一番早い東京でないといけない」と感じ、転勤希望を社長に直談判しましたね。当時、東京のインターネットビジネスの責任者が社内にいなかったことから、社長と思惑がたまたま合致して、人事から異動通達が下されることになりました。

『受動的人生』を歩んできた私も、このときばかりは「異動したい」という気持ちを上司に伝えましたね。東京での肩書きはインターネットビジネスの責任者でありながら、社内事業としてセキュリティソフトの開発に勤しみました。

 

セキュリティ問題の事件を潮目に、事業は上向きに

—社内事業は当然赤字からスタートだと思いますが、転換したのはいつ頃でしょうか?

徳丸先生:
2004年当時は、自分が開発したWebアプリケーションのセキュリティ商材を販売していたものの、業績はいまひとつでした。しかし2005年5月に『価格.com事件』が起きて、個人情報漏えいが社会問題にまで発展したことを発端に、一般ユーザーのセキュリティ意識が一気に高まりをみせました。個人情報の漏えい事件が発端して、業績が伸びたのです。

*価格.com不正アクセス事件
ウイルスに感染し、サイトの改ざんやユーザーのメールアドレスが一部流失するという事件が起きる。10日間のサイトの一時閉鎖を余儀なくされ、被害総額は2億円以上にのぼったとされる。参照:http://virus.sakuracre.com/chap3/3-6.html

 

—業績が向上したにも関わらず、先生は2008年に独立の道を選びました。そこにはどのような心境の変化があったのでしょうか?

徳丸先生:
その頃から世間にネットのセキュリティ問題についてさまざまな言説が出回るようになったのですが、いい加減なものが多かったんですよ。ネットで正しい情報を正しく伝わる状態を作りたい」と思うようになり、2007年にブログを始めたんです。

あるとき、読者から『XSSナイト』というネットワークセキュリティ業界で著名な方が集まるイベントの存在を教えてもらい、足を運びました。そこで、個人事業主や会社を起こしてセキュリティ問題と向き合っている人たちと出会い、とても刺激を受けましたね。

当時はKCCSで朝から晩まで働いて、夜中妻と夕飯を食べてからブログを書き、個人に依頼がきた原稿を執筆する。そんな生活が続いていた時期でした。

そんなときに、独立して活動している方々を目の当たりにしたことで、私自身も「独立して、セキュリティ問題に真正面から向き合わなくては」と意識が高まってしまったんですよ。完全に『意識高い系おっさん』です。ボーナス前の6月だったのですが、意識が高まりすぎて「賞与をもらっている場合ではない!」などと息巻いて、またも社長に独立希望の気持ちを伝えるために直談判しました。最終的にKCCSでは外部顧問となって、籍は置いておく形で独立を認めてもらいましたね。

 

失敗や辛い経験はすぐ忘れる。そんな徳丸先生が犯した、個人のセキュリティ問題とは

—仕事を通じて大きな失敗や挫折などはなかったのでしょうか?

徳丸先生:
そのときそのときで辛い経験や時期もあったと思いますよ。書いた記事に対して批判的なコメントや中傷するようなことをいわれると当然傷つきますし、『徳丸本』を執筆中にレビュアーから、厳しい意見をいわれたときは、もうメールを見たくもないとも思いました。でも基本的に私は辛かったことってすぐに忘れてしまうんです。一種の防衛本能だと思うんですけど、本当にまるっと抜け落ちますね。そんななかでも、覚えているのはホームページを通じて、家内と離婚危機にあったことですかね。

 

—そのときのお話、ぜひ聞かせてください。

徳丸先生:
90年代に、ホームページ上の掲示板に投稿される質問に答える活動をしていました。

あるとき、大学の課題か何かで質問を受け、解説をしてあげたら、やけに感動されたことがありまして。そのあと質問した方から「お礼がしたい」と言われ、何も考えずに住所を教えてしまったんですよ。そしたら自宅に女子大生から贈り物が届き、妻にかなり浮気を疑われましたね。新婚ほやほやだったのに、突然知らない女性から自宅に贈り物が届いたものですから。今考えると、住所を知らない人に教えるというのは、セキュリティ意識が低かったんでしょうね。

 

チャンスには、正しく反応する。積極的な『受動的人生』を歩んできただけ

—徳丸先生が情報発信をする際に心がけていることがあれば、教えてください。

徳丸先生:
私は、一生懸命やって間違えてしまうことは仕方がないと思っているんですけど、間違ったことを言ってしまうのが嫌なんですよ。ですから、概念を説明するときや、指摘をする際は必ず自分で何度もテストをします。脆弱性を伝えるためのサンプルを製作する際も、こだわります。それと自らが手を動かし続けるプログラマーであることは意識しています。

セキュリティ問題を伝える際、「コードをどう書けば、いいソフトウェア開発ができるのか」という話に最終的に行き着きます。プログラム開発とセキュリティ問題は表裏一体と思っていますので。自らがエンジニアであることはおろそかにしたくないと思っています。

 

—仕事に対して、一切手を抜かないからこそ、ここまで業界の中で信頼を勝ちえたのでしょうね。

徳丸先生:
どうなんでしょうかね。基本的には、引き受けた仕事は全力でやるというのを全うしているだけですからね。例えば、上野に行く記事にしても、『徳丸本』の執筆にしても、とりあえず依頼があったものは、できるだけ引き受けてやってみるというだけですから。当然、後で後悔することもありますけどね(笑)

 

—お伺いしていると、独立した頃から先生は、攻めに転じる積極的人生に変化したと思ったのですが、いかがでしょうか。

徳丸先生:
いえいえ、私は今でも受動的な人生を生きているつもりですよ。もっと言うと、私は積極的な『受動的人生』を生きているんです。つまり相談が来たものはチャンスと捉えて、一生懸命やってみる。その繰り返しでここまでやってこられた気がしています。自分から決断して、勢いで動いたのは独立くらいですからね。

—今後、どのようなことを発信していきたいと考えていますか?

徳丸先生:
マイナンバー問題を含め、これから個人の情報がどこにも漏えいしないというのは現実的に不可能に近いと思っています。そうであるなら、どこかから個人情報は漏えいすることを前提に、情報が漏えいしても実害が起きないよう社会全体の仕組み作りに貢献していけたらいいなと思っています。

また個人としては、社員を増やそうとしていますから、ネット社会を安全にするという志のもと、集ってくれる仲間といい仕事がしたいな、と考えていますね。

 

—それは先生個人の目標でありながら、ネット社会全体の幸せであるかもしれませんね。今日はありがとうございました。

徳丸先生:
ありがとうございました。

撮影:三宅英正

aki冨手 公嘉(とみて・ひろよし)エディター/ライター
1988年生まれ。編集プロダクションverb、東京通信社を経て、2015年7月に独立。the future magazineの編集長としても活動。
この記事をシェアする
  • Facebook
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

関連記事 | こんな記事もオススメです。